ひねもすのたりのたり。

好きなものとか、日々思うこととかを記録しています。

こころにうつりゆくよしなしごとを

 わーい4連休中に書いたブログ5本目です!ノルマ達成~!まだ最終日のお昼なので、もう2~3本書けるかも。予約投稿して今週中に少しずつUPしても良いかもだ。
 まさか5本中1本を「実録!クレカ不正利用!!」の内容にすることになるとは思っていなかった……。人生やっぱりどこで何が起こるか分からないよなぁ。そう考えると、ただ道端を歩いていて犯罪に巻き込まれる可能性もゼロじゃないので、武器の携帯と、何かあった時には刺し違えるべき心構えがあった方がいいんじゃないか……みたいな気持ちになってきますね。過剰防衛に関する法律関係も調べておこう。
 
 さて、このブログを書くようになってから、ネタリストってのを作ってるんです。「これについて書こう」と思ったときに打ち込んでるリスト。(有料のサブスクであるEvernoteプレミアムを使ってるんだけど、どう考えてもオーバースペック。スマホのメモ帳で良いだろ、っていう)
 「俺的GOLベスト10」とか「二度と観たくない名作映画」とかもう既に書き始めてる内容もあるんだけど、こんな感じで端的に書くので、後から全然何を書きたかったのか思い出せない内容もあります。例えば、「それって優しいって言うの???」というテーマ。わかる……絶対何かあったんだ……誰かが誰か(もしくは私)に対して「優しい」と表現した事象に対して疑問を持ったんだ……そういうことありがちだもの……でもそれが何だったか皆目思い出せない。面白そうなのになぁ。
 こんな感じでお蔵入りになるテーマもちょこちょこあります。最近打ち込む時にはもう自分がそうやって忘れてしまうことは考慮してなるべく分かるように書くようになったけど、そうすると今度は「これ、ブログに書くようなこと??」というくっだらない内容だったりするんだよな……。チベットスナギツネの話とか。
 
 私はよく謎の一人遊びを始めるのですが(レトルトカレーを食べ続けてその記録をとったり、鶏むねを毎日食べるのに挑戦したり、ゲームを英語字幕でプレイしてそのセリフを書き起こしたり)時々我に返るというか、何が面白くてそんなことをしているのか分からなくなります。このブログについてもやっぱり同じように我に返る瞬間がありまして。こんな、自分という素材を薄く切って塩をふって並べるような文章を書いて、一体どうしたいんだろう、と。何がどうして面白いんだろう。分からないけど、こうして頭に浮かんでは消えていく何かをこうして文章にして書き起こすことで、見えるものがだんだんクリアになっていく感覚があって、それが好きなのかもなぁ……と、今日はそんな結論に至りました。
 
 文章を書くと、考えが整理されると思うんだよね。仕事でも結構訳が分からないな~と思っている状況も、人に説明するためにメールで時系列で書いたり、論点をまとめたりすると自分の頭の中でどんどん整理されていく。(そういうことをしなくても頭の中できちんと整理できてる人も見るけど、頭が良いというか、私とは頭のつくりが違うんだな、と思う)これは私がどこまでも言葉でモノを考えるタイプだからだろうな。
 伝わる人には伝わると思うんだけど、長時間落ちモノ系とか、パズル系のゲーム(ぷよぷよとかパネポンとかホームスケイプとか)をプレイした後、現実でもふとピースを合わせてしまいたくなったりする、不思議な感覚に陥ることがあるんですよね。これはもうめちゃくちゃ映像的なのでものすごく言葉で説明しづらいのですが。こんな感じで思考方法って結構癖があって、絵をよく書く人とかは考えるのをイメージでやってたりするんじゃないかな?と思う。あと、映像でものを考える人(思い出すのとかを完全に映像の再現でやる人、もしくは音声でやる人も含め)もいるだろうし。これは人に聞いたことがないから推測だけど、少なくとも人と話していて皆が皆、文字と言葉でモノを考えている訳ではなさそうだぞ、と思うことが増えてきました。どの思考方法が優れている、ということではないんだけど、そういうことを考えると、相互理解ってマジで無理ゲーでは??と思ったりするよね。
 言葉というのはあくまでツールで、そのツールにどれだけ依存しているかは人それぞれだったりするのに、現状人間が他人と分かり合うには言葉以上に適切なツールがないという……。そして、私は言葉に依存しきってるので、それ以外の相互理解ツールに対して感度が低いんじゃないかな、と勝手に思っている。例えば視線とか、仕草とか、声のトーン、歩き方、喋り方……そういった諸々を、敏感な人はもっと読み取れるんじゃないのかな。対人間じゃなくたって、世界は必ず何かが動いているし、それは言葉で表せるものばっかりじゃない筈なんだよ。
 ミスチル「擬態」という歌で”障害を持つものはそうでない者より不自由だって誰が決めんの? 目じゃないもの、耳じゃないどこかを使って 見聞きをしなければ見落としてしまう 何かに擬態したものばかり”というフレーズがあって、こことても好きなんだけど、まさにそういう私が見落としているものが、この世の中にごまんとあると思うんだ。
 そういう非言語のものが性質上言語化が凄く難しいことは分かってるんだけど、でも私がある程度使えるツールは言語しかないので。そうして見落としている感覚的なものを少しでも言語に変換して、自分の中での解像度をあげていきたい。特に、感情について。アンパンマンのマーチではないですが、何が自分の幸せで、何をして喜ぶのか、何が辛いのか、何に怒りを感じるのか。分からないまま終わるのは、ちょっと寂しい気がするんです。そういうのは本当にただ生きていると見落としていくんですよ……悲しいことに。(と、書きつつそんなこと気にせずにただ生きているだけの方が幸せに近いような気もするんですけどね。何のために生まれて何のために生きるのかなんて、考え出したら気持ちが際限なく沈みますよアンパンマン……)
 
 と、ちょっとブログを書く理由をふと考えてみました。文章を書くことは、その時の気持ちの真空パックみたいなところがあるので、今はこう思ってるけど明日にはもう違和感があるかもしれないんだけどね。(先日ブログに書いた「恥ずかしいから死にたい」は書いてる時はしっくりきたけど、今や既に「そう……いうことだけじゃねえんだよなぁ……」という気持ちになっていたりします。その時そう思った事実は変わらないので、削除はせんつもりだけど)それも含めて、不可逆で本来残せないここにある何かを文字で残すっていうのは、結構面白い娯楽です。頻度は落ちても、続けていけるといいけどなぁ。7年続いてるTwitterのように……。