ひねもすのたりのたり。

好きなものとか、日々思うこととかを記録しています。

運が良いから生きている

 何だかちょっと秋めいてきました。涼しい。久々にクーラー消して過ごしているよ。
 ASUSのPCは思ったより使えています!良かった~。WPS Office、昔使った時には本家(MS Office)に比べて使いづらい~、という印象があったのですが、結構進化している印象。Writerしか使ってないけど、全然Wordと遜色なかった。敢えて難を言えば、キーボードの配置が普段使ってる会社のPC(LenovoのThink Pad)とちょっと配置が違って、CtrlキーとFnキーが逆の位置にあるから、コピーとかカット、ペーストをよく間違える……くらいかな?やっぱりその辺は使い慣れてるもののほうがいい。あと、まぁそりゃあ高機能PCに求められる機能みたいなものはあんまり入ってないけど、ポチポチ趣味で文章を打つくらいだったらこれで十分だわ。(……と打ってたんだけど、デュアルディスプレイEvernote開きながらとかだとWriterも動きがもっさりするのはちょっとストレスだな……まぁその辺は廉価版なのでしょうがない)
 それにしても、平日は働きながらブログとか書きたくて仕方なくて「何書こうかな~~」とかワクワク考える癖に、いざ休みが来ると覿面面倒くさくなってなかなかPC立ち上げられなくなる現象に誰か名前を付けてほしい…ていうか既に名前付けられてそうだよな……探すやる気もないけれど。ゲームとか、楽しい予定もそうなんだよね。休日は、平日にありて思うもの……。
 
 前置きの日記が少しずつ長くなる……。気を取り直して、今日は私の大嫌いな「自己責任」について徒然書いちゃおうと思います。これに関してはいつもすごくもやもやを感じているんだけど、うまく言語化できていないので、この機会に少しでも自分の中の解像度を上げたい。あ、先に書いておくけどファクトチェックゼロで一貫して「私はこう感じる」「こう思う」ということを徒然と述べていくつもりです。こういう社会の見え方っていうのは、人によって様々だろうから色んな人の意見が聞いてみたいなぁ。
 
 最近時期総理大臣と目されている人が「自助・共助・公助」と掲げてて(私のTwitterのTLでは)話題になっていました。これに関しても「いや政府の人間がまず自助を掲げるとか頭沸いてんのか。重税課してる自覚あるんか」とか「はーーー。まぁ、人のお世話にならんような蓄えをしておけ、っていうんなら、子供なんて金とリスク超かかるものは到底育てられまへんな!」とか言いたいことは一杯あるんだけど、ちょっとまぁそれはおいといて、今日書きたいのはこれが罷り通ってしまう近年の日本の空気ですよ!
 ここ10数年で一気に「自己責任」と言われるものの範囲が広がったというか、個人の責任を問う風潮が濃密になったと感じるのは私だけではないと思うんだけど、どうなのかな。SNSで可視化されただけで、昔からそうだったのかもしれないけど。貧困とか、苦境にあるのはその人の努力が足りなかったり、選択が誤っていたからで、それはその人の責任である、という考え方。富裕層~貧困層まで幅広く浸透している気がするんだよね。個人的に、富裕層がそういう考え方になるのはちょっと理解できる。と、いうのも、生まれた時から裕福で、貧困で苦しむ人など目にする機会がなく小・中・高・大…ときて一部上場企業に特に大きく苦労することなく就職……とかで生きたら、自分と似たような人種以外、見る機会が無いだろうから。そうすると、そもそも貧困層の厚みを見誤るし「そういう特殊な人は『ものすごく運が悪い』か、『本人の努力が足りない』かだろう。『ものすごく運が悪い』人はそんなに多くないだろうから、大多数は努力が足りない人間だ」と、明言しなくてもほんのり偏見が生まれてもしょうがない気もする。良い悪いは置いておいて。私自身裕福な生まれではないんだけど、上京してきてから出会った人が、関東圏で生まれたいいとこ生まれの人が多かったので、その人たちを見ての印象ですが。(誤解を避けるために書くけど、その人達は皆とってもいい人達です。でも何となく、格差とか貧困とかの問題に対して関心が薄いというか、「明日は我が身」とは感じたことなさそうに思えるので、その原因を私なりに観察した結果の印象)
 不思議なのは貧困層にも同じような自己責任論ががっつりと浸透しているように見えることなんだよね。苦境とか貧困に苦しみながらも「でもそれは自分の努力不足なのでしょうがない」と思っている人が想像以上に多く見えてびっくりする。でもそれって、本当にそうなんだろうか。
 
 タイトルに戻るんだけど、私はホームレスの人とかを見る度に、この人と私の違いは「運」だ、ってしみじみ思うんだよね。子供を虐待した親や、逆に虐待された子供とかを見ても思う。生まれた環境、能力の初期値、諸々の巡りあわせ…そういうのが少しでも違えば、私は貧困のどん底だったかもしれないし、もうこの世にはいなかったかもしれない。もしかしたら犯罪に手を染めていたかも。とりあえず今、特に心身共に健康も害さず、思想を剥奪されたり、迫害されたりせず生きていられているのは、本当に偶然の産物なんだよなぁ。……と、いうことを、皆が思っている訳じゃないことに、ちょっとゾッとしてしまうんだ。いつも。
 (不特定多数の)あの人や私が、自分を構成すると思っているその要素だって、私たちが「運」で得たものだと思う。私は、自分の言語的理解力にある程度自信があって「私が読み取れないものは、世の中の大概の人に読み取れない筈だ。逆に世の中の人の多数が理解できるもので、私に理解できないものなんて少ないでしょう」とナチュラルに思っている節があります。(日本語の文脈の話ね。最近日本語が読めない人が増えてきたとか言われるけど、絶対に私は「読めている」側だという確信がある、程度の話です)でもその能力も、私が「運」で持っていたものだと思ってる。もちろん、そんなのだけじゃなくて、ある程度丈夫な体も、他人と最低限のコミュニケーションが取れる能力も全部、幸運にも持ってたものなんだよね。もちろん、どちらかと言ったら私はこの社会に適してないほうの人間なので、不運にも持っていないものもいっぱいあるけど。
 ただどちらにせよ言いたいのは、「努力とか気持ちとかで自分で何とかできる範囲は、思っているよりずっとずっと小さいぜ」ってことなんですよ。運の巡り合わせの前で、それをコントロールする術を持たない私たちはとても無力なんじゃないかな。そんな世の中で、困窮することを「自己責任」っていうのは、ちょっと烏滸がましくないですかねぇ。そこにいる困窮者、犯罪者、被害者に、もしかしたら自分がなっていたかもしれない、そういう視点を持って生きていかないと「自分とは違う世界の話」と思ってしまった瞬間に世界が閉じてしまうんじゃないかな、と思ったりします。
 そんな訳で私はこの自己責任を声高に叫ぶ風潮が嫌いです。嫌いというより怖いのほうが正確かな。私たちが自己責任を問うて「自分とは違う人間である」と切り離しているその人達は、自分や自分の家族・友人のIFの姿で。そのIFの人たちが切り離されていく社会では、不運に対してあまりにも無力なんじゃないかと思うんだよ……。究極、生まれてくるか来ないかっていう根本的なことすら、私たちは選べないでこの世にいる訳だしさ。
 
 この話は結構考え出すと難しくて、ここまで書いたけど自分の中の違和感の半分くらいしか言語化できてない気がします。この違和感は大事なんじゃないかと思っているので、また機会があれば言語化に挑戦してみたいところです。今後の経験や人生で、また違った見方になっていくかもしれないしね。その時々の自分の考えを、出来るだけ言葉にして、再認識していきたいものだわ。自分のために。